あの時、こうしていれば・・・

400前、戦国時代末期の関ケ原、組織の存亡を賭けて選んだ策(リスクヘッジ)は、ビジネスの意思決定モデルとして非常に役に立つ。その中から興味ある視点を取り上げる。

裏切り(?)上手 藤堂高虎

 前回の真田一族は、親兄弟が敵味方に分かれるという壮絶なリスクヘッジをして、大変な時代を生き延びた成功例でした。

 今回は同じ成功例として、機を見るに敏、「これしかない」と選択と集中を断行して成功した藤堂高虎を取り上げます。

江戸時代の末、慶応4年(1868)1月、幕府軍と薩摩・長州を主力とする新政府軍が京都の南郊、鳥羽伏見で激突しました。世にいう「鳥羽伏見の戦い」です。

 幕府軍の先鋒として砲兵隊を受け持っていたのは、家康以来、事あるときは幕府軍の先鋒となる家柄を誇る伊勢の津藩・藤堂家で、大砲は薩長軍を目がけて火を噴くはずでした。しかも幕府軍は1万5千、新政府軍は5千、数では圧倒的に幕府軍が優位に立っていました。

 ところがあろうことか砲門はくるりと向きを変え、幕府軍の中へ砲弾が落下したのです。裏切りです。これによって幕府軍は壊滅。薩摩・長州は戊辰戦争の主導権を握ることになります。

 この藤堂家の裏切りを、世の人は、『さすがは藤堂。藩祖高虎以来の裏切り上手』と、囃しました。「裏切り上手」と言われた藤堂高虎。いったいどんな人物だったのでしょうか。

戦国の時代、「七度、主君を変えねば侍とは言えぬ」ということが常識だったようで、それを地でいったのが藤堂高虎です。

 これが「二君に仕えず」となっていったのは江戸時代になってからの話です。

 高虎は最初、浅井家配下の近江の小豪族に仕えますが、先に望みが無いと見るや、さっさと退転します。生来、武辺一筋ではなく、頭が切れ、目端が利いたのであろうと推測されます。

 その後、織田信長の甥にあたる織田信澄に仕えるも、信長が本能寺に倒れるや、その混乱の最中、織田信澄は殺されてしまいます。

 織田を継いだ豊臣政権では、羽柴秀吉の弟、羽柴秀長に仕えます。その秀長の死後、秀吉は彼を伊予板島(現在の宇和島)8万石の大名に取り立てることになります。

 慶長3年(1598)、秀吉が逝くと、高虎はまるで家康の家来のように動き始めます。

 豊臣を平然と見捨てて家康になびく様子が「へつらい大名」「日和見」「ごますり」という評価を受けるようになったようです。但し、その仕事ぶりはすさまじく、“高虎はいつ寝ているのか“と噂されるほどで、それは家康がなくなるまで20年以上も続けられたのです。

 たとえ演技でもここまでやれば信頼を得られるに値するはずで、大阪の陣では、高虎は冬の陣、夏の陣ともに先鋒を務め、このことが先例となって「譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂」というのが徳川幕府の軍法として定まったのです。

当時の主君を変えるということは、現在で言えば、転職する、プロジェクトを選ぶような感覚だったのではないでしょうか

 一族郎党を養うために、力を発揮できる新しい舞台を選ぼうとすることは、私たちも同じで、さしずめ今なら、家族や恋人のため、あるいは自己実現のためと言えるのではないか。そのために時代の先を読み、今の仕事に見切りをつけることは十分あり得ることです。

 ギリギリのところで一つに決められず二股をかけたのが前回の真田一族であり、先を読むことに長けた藤堂高虎は、「これしかない」と徳川の時代を予測した選択と集中の見事なケースと言えるのではないかと考えています。

 プラスして、城作り名人というテクノクラートの側面を持ち、手掛けた17城は戦国大名で最も多く、江戸城の設計も手掛けているほどで、家康がいかに信頼していたか伺えます。

 真田の合戦上手と同じように、得意技を磨いていたから出来た世渡り上手と言えます。

 徳川に味方した中には、大阪側中心人物である石田三成への憎さだけで動いた加藤清正福島正則などの諸大名もいます。が、加藤、福島は反三成だけだったので、結局取り潰しになってしまいます。性根の座った二股(リスクヘッジ)や時代の先見性ではなかったわけで、今の仕事が面白くないという単純な理由だけの転職がうまく行かない事によく似ています。

 ちょっと毛色の違うのが、常識的には真っ先に徳川から滅ぼされる立場だった関ヶ原で大阪側総大将の毛利家と、秀吉の親友だった前田家。これらについては次回以降で。

最後に、高虎の晩年エピソードから。

 家康最晩年のころ、外様大名の取り潰しや国替えが取り沙汰されていた。そんなころ駿府の家康を高虎が訪問し、家康の重臣土井利勝(一説では家康の落胤)に申し出たのです。

「それがしも老い果てる年になりました。しかし、せがれ大学頭(実子高次)は不出来でござる。とても国は保てませぬ。それがし死後はすみやかにお取潰しくださいますよう」 

 家康は高虎を招いて言います。

「たとえそちが死んでも、そちが多年手なずけた家老が多い。大学頭不肖といえども国を保てぬことはあるまい。永世に伊勢、伊賀32石は藤堂家のものぞ」。

 この一言を得るために高虎はわざわざ申し出たのです。

 しかも高虎は家康の言葉を証文としてもらい盤石の布石としています。神君家康の花押入りですから、「黄門様の印籠」でも及ばない絶対的な威力を持っています。豊臣大名であった高虎は自分の後、子孫が幕府からあらぬ難癖をつけられ、場合には取り潰されることも危惧していたことは容易に想像できます。

 先を読む力がここでもいかんなく発揮されていると思うのです。これを保身術というなら、ここまで来ると名人芸の領域です。

 証文のおかげで、藤堂家は改易も国替えも減封もなく、明治維新を迎えるに至っています。

 ・参考; 「虎の城」      火坂雅志祥伝社文庫

      「戦国を駆ける」   神坂次郎、中公文庫

 

余話として・・・

三重県志摩市の海女さん美少女キャラ「碧志摩(あおしま)メグ」(写真左)が市公認撤回となった。過剰表現が不快との理由だ。

ふなっしー」の例もあるし、非公認で頑張って欲しい。

ちなみに同県伊賀上野市の忍者フェスタキャラ「伊賀嵐(いがらし)マイ」(写真右)は「碧志摩メグ」の親友との設定らしい。

こちらは公認キャラで、案内はG7対応の英独仏伊版である。


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真田三代

 今、日本は、グローバリゼーションの大波に向って大変な時代にあります。

 大河ドラマ真田丸」の時代は、日本全土という当時のグローバリゼーションを踏まえて、一族が生き延びるために大変な時代だったと言えます。生きるために選んだ策(リスクヘッジ)には成功、失敗があり、意思決定モデルとして参考になると前々から思っていて、いくつかの事例を紹介させていただきます。

 中でも真田一族は、親兄弟が敵味方に分かれるという大変なリスクヘッジをして生き延びた数少ない成功例です。

・知略に長けた戦上手で、小よく大を制す痛快さ

・息子を二分しての抜け目ないリスクヘッジ

・豊臣家恩顧の律儀な忠誠心

・最後に滅びの美学

と来ると、日本人の心情にはたまらないものがあります。

俗に『真田三代』と言いますが、「真田丸」主人公の幸村は何代目となるのでしょうか?

系譜を見ると、次のようになります。

【幸隆】-【昌幸】-【信幸(信之)】 …⇒ (明治まで)

         -【幸村】-【大助】

 【信幸】、【幸村】は兄弟で、祖父の【幸隆】から数えて三代目とするのが正統派と思いますが、猿飛佐助など十勇士が登場する講談物では【大助】も活躍するので、【幸村】は二代目とみられがちです。でもまあ、この十勇士はほぼ作り話と考える方が妥当でしょう。

 真田一族の真骨頂は、関ヶ原へ臨んで、兄【信幸】は徳川側へ、父【昌幸】と弟【幸村】は大阪側へ属したことです。後の大阪の陣では、弟【幸村】は真田丸を築いて大活躍するのですが、兄【信幸】は敵の徳川側へ属していて、一族が戦場で会いまみえることになったのです。

 結果的に徳川側の兄【信幸】が真田の名跡を継承し、明治まで存続することになります。

真田一族は、長野県東北部上田盆地の山中の真田村から起こった小豪族で、海野氏という戦国大名に属していたようですが、祖父【幸隆】の頃、海野氏が武田信玄に滅ぼされ領地を失うも、その後武田氏の配下となり、先祖以来の真田郷を復した経緯があります。

 真田の栄光は父【昌幸】によって樹立されたといっていいと思います。武田信玄には多くの武将がいましたが、信玄の卓越した陣法とすぐれた民政の技量を継いだのはこの【昌幸】と言えるのではないでしょうか。

 武田が織田信長に滅ぼされ、その信長が本能寺で非業に死ぬと、信州一体は一種の無政府状態となり、すばやく【昌幸】は千曲川流域に独立圏をつくろうと動きました。

 このとき徳川家康が火事場泥棒よろしく兵を進めてきたため徳川軍を迎え撃ちます。【昌幸】は1/4の劣勢でこれを撃破、家康の遠征を断念させたのです(第一次上田合戦)。

 「真田六文銭」の名声が天下にあがったのは、この時からといっていいでしょう。

その後、【昌幸】は遠く上方で勃興した豊臣氏と手を結ぶのですが、これは近くの家康が嫌いなため、その勢力を豊臣氏に牽制してもらいたかったようです。真田のしたたかさは、その一方で、長男【信幸】を徳川の重臣本田平八郎の娘(家康の養女として)と政略結婚させ、嫌いな相手とも手を結ぶ二股作戦(二足のわらじ)をとったことです。

 【昌幸】は秀吉の死後も豊臣氏に忠実だったことで、律義者の好きな信州人に好まれる大きな理由となっています。関ヶ原に臨んでは、必ずしも律儀だけではなく、勝てば信州とその周辺の2,3国を併せ得ることができると考えていたに違いありません。

 結局、【昌幸】は次男【幸村】とともに上田城徳川秀忠軍と戦います。

 関ヶ原では徳川軍は家康が主力をひきいて東海道を行き西軍と合戦になりますが、秀忠は別働隊で中山道をとります。この秀忠軍が上田城で【昌幸】に阻まれ、ついに関ヶ原に間に合いませんでした(2次上田合戦)。 【昌幸】は局地戦には勝ったのですが、【幸村】とともに高野山麓の九度山に閉じ込められてしまいます。大阪の陣はそれから16年後です。

小大名の宿命とはいえ、見え見えの二股作戦をしかける真田を、快く思う武士はいなかったはずで、事実そういう徳川の家臣の記録も残っています。

 【昌幸】は“表裏比興の者”とまで言われていたようです。この比興(ひきょう)は煮ても焼いても食えない奴という意味に近い。二股をかける・天秤にかける(あるいは二足のわらじを履く)、これらは現代でも決して良く思われることはありません。本業での優れた力と後ろ指を何とも思わないふてぶてしさとを持っていないと、二兎を追うことになり、大抵は両方とも失敗します。

 真田の場合は、“徳川の大軍を2度も破った戦上手”という誰もできなかった得意分野を磨き上げたことが成功のポイントでした。ビジネスでもカウンターパートナーに一目置かせるには、たとえ一度でも噛みついてみせることが大切なのと同じです。

 古今東西、戦術のセオリーは、戦う前に敵を圧倒するだけの兵力・火力・兵糧を集中させることです。

 しかし日本人の美意識には、それとは異なり、「寡をもって衆に勝つ」という曲芸じみたやり方を正統とする風がありました(今でもその傾向は残っていますが・・・・・)。

 そのくせ明治以前の戦史ではその好例は少なく、せいぜい源義経、楠正成、それにこの【真田昌幸】の例があるくらいで、この3人のなかでも【昌幸】の場合はもっともすぐれていると、司馬遼太郎氏は褒めちぎっています。【街道をゆく19 -信州佐久平みち-】

 徳川側は、大阪の陣でも家康をあわやという場面まで追い詰めた【幸村】の戦上手を高く評価し、これらが真田一族を明治まで存続させた大きな理由となっています。

 参考; 「真田太平記」  池波正太郎新潮文庫

     「真田三代」   火坂雅志、文春文庫

 

余話として・・・ 

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長野県上田市のエネルギー関連精密機器メーカを訪問した。

(写真はメーカの玄関ロビーに飾られていた真田十勇士像)

上田市は2006年に近隣の真田町などとの合併でできた市である。

真田町でお分かりの通り、真田六文銭の本拠地で、今年の大河ドラマにあやかって観光街おこしを狙っているそうだ。

だったら、大河ドラマを機会に、「上田市」から「真田市」へ名称変更を決断してはどうだろうか。

上田市」なんてどこにあるのか判りもしないが(長野県の人には失礼)、「真田市」ならば、県内の長野・松本市以上の全国区知名度間違いなしと思うのだが・・・。